昭和42年8月29日 夜の御理解
今日は敬親会の例会日でございまして、今日は大変人数も多ございました。三十五、六名ございましたでしょうか。熱心にお話を聞いてくる人、ですから私も思わず力が入ってまあ話を本当に初心の人、段々信心が分からせて頂いておる人。本当に信心を楽しみに信心をしておる人様々でございますから、様々な角度から話しさせて頂いたんですけれども、今日の敬親会の方達に私どういう様なお話をさせて頂いたら良かろうかと神様に御神意をお伺いしましたら、お花の水をこう替えているところを頂きました。それで私はこれをあの「生きたくば信心をして長生きをせよ。」と云う教祖の御教えがございます。「生きたくば信心をして長生きをせよ。」と。みんなやはり多い方は八十いくつの方も見えておられます。六十五才位から上の方達ばかりでございますが、やはりおかげを頂いて長生きをしたいという気持ちね。早死にをしたい等と思うた人はない。
皆あの長生きをしたいと云う気持ち、それかと云うて今日あの北野からお参りになった方でございますけれども、まあだ私と友達と云うから寅年で五十四才ですか、ね。数え年で婦人の方ですけれども、もう二回目の中風が出ましてね、ろれつが回らない。スーとよだれがだらだら流れると云う様に本当に気の毒な方なんです。
ですから、そういう状態で例えば、長生きをしたところで自分も術ない周囲の者も、又術無いと云うことになりますのですからね、「生きたくば信心をして長生きをせよ。」と仰ることは只長生きをすると云うことではない。「生きたくば、信心をして長生きをせよ」と仰るのは、ね。健康でありたくば、信心をして健康のおかげを頂ける様にね。百万長者になりたいと思うなら、信心をして百万長者に成れれる様に、信心してと云うことにあらゆるお互いがおかげを願っておる様々なことに、私は通用することだと思う。長生きと云うことだけではない、ね。
おかげを頂くと云うことは、本当に七十まで、八十迄又は九十迄と云うて長生きのおかげを頂いても、やっぱりこの世はうれし楽しいところとしておかげの頂いてこそ長生きの値打があるのでございますから、信心してと云うことはそういうことだと思います。 そこでなら長生きをしたくないという者は真実ありますまいが、そんならどの様な生き方にならせて頂いたら長生きのおかげを頂くであろうかと、例えばお花の水をこの暑いのに一週間も替えんでおってごらんなさい。一週間で枯れて仕舞うでしょう。一週間もかからんかん知れん。けれども、毎日冷たいお水で、冷たいお水をもう云うなら朝昼晩でも替える気になってごらんなさい。それこそ一週間もてるのは一ヶ月ももてましょう、ね。長生きと云うのはそういうことなんですよ、ね。と、云うことはどういうことかと云うと、生き生きとした喜びをです、頂くと云うことのそこに、お広前通いがあり、お話を頂かせて貰うと云う信心の稽古がいるということになるのです。
と云うてだから他に色々話しましたけれども、この事だけは皆覚えて帰ってくださいよと云って、私最後に念を押してから、そのもうとにかく時間の経つのも、五時ちょっと、五時過ぎましたから、もう打ち切りましたけれども、もう何時までもおかげの話を聞いていたい様な雰囲気でございましたね。これは決してお年寄りだけではない。私共ももっと長生きをしたい、長生きをしておかげを頂きたい。いうなら、信心をしてお金持ちにも成りたい。健康のおかげも頂きたい。長生きのおかげも頂きたい、ね。だからそういう願いを満たして下さるのが信心なんです。ですから、その為にはんなら、御用のおかげを頂きますように生き生きとした喜びを頂かせて貰う。生き生きとした冷たい水を取り替えさせて頂くようにです、私共の心の中に何時も喜びが取り替えられる。日に日に新と仰るが斬新な生き生きとした喜びを頂かせて貰えると云うことを楽しみに信心させて貰うと云うことになるわけでしょう、ね。皆さんがこうやって夜の御祈念にお参りをなさる。そして外からお参りになる方はそれでもやっぱりですね、お勤めと云った様な気になるんです。ね、いわゆる勤行務、お勤めの行なんです。何とはなしにお勤めになってしまう。今日もおかげを頂いて有難し。そのお礼心が何時の間にか、足は何時の間にか合楽に向かっておる。
おかげを頂きまして今日も一家中の者が無事に健康のおかげを頂きまして、あの上にもこのことにもお繰合わせを頂きまして、おかげを頂きまして有難うございましたと云う様なお礼を申し上げなければおられないものが、ここへ足が向かって來るというばっかりではないと思うのです。
只ぼんやりと何とはなしに時間が来たから、まあ例えば、ほら着いとったらあの合楽のお広前におったと云う様なことでもあるかも知れません。場合によっては、ああ今夜もお参りしたくないけれども、何とはなしにけれどもまあと思ってお参りして來るような場合もあるかも知れません。
私はそれでも良いと思うのです。特にんなら、あそこの家族内で私の家庭の者ここで修行致しております者でもそうなんです。
まあまあお勤めの時間だと云うので羽織袴を着けて御神前に出る。それが何とはなしにおざなりなお勤めになってくる。それでも良いと思うんです。人間ですから何時もかつももう喜びで一杯で、もうお礼を申し上げねばおられないと云った様な時ばっかりはないのでございますからね。それで良いのです。けれどもです、だから形のことだけは、やはりなされなければいけん。ね、 例えば、八時に御祈念が、お勤めが始まるならば、ならお勤めに間に合う様にと云う様なです、心がけこそが必要だとこう思う。それでもやはりお勤めであって、さほどでもないのだけれども、なら初めからさあ親先生の拍手に合わせて天津祝詞を奏上させて貰う。 拝詞を奏上させて貰う。天地書附を奏上させて頂いている時間をかけておるうちにです、本当にようお参りをさせて頂いて良かった。御祈念の時はそうでもなかったけれども、御理解を頂かせて貰いよるうちにです、お参りさせて頂いて良かったと言う様なものがです、私は水を取り替えることだと思うのですよ、ね。そう生々しいものもないけれども、只本当に勤めになって仕舞っておる様なことではございますけれども、その勤めでもよいから、お勤めはお勤めらしゅうほんとにお勤めしなければいけない。そうしている内にご祈念を頂いておるうちにご理解を頂いておるうちに何かの拍子にふっと自分の心に生き生きとしたおかげを頂いて良かったと云うもの、それが取り替えられていくんです。水が取り替えられて行くのですね。
ですから、それが頂けないごたるならば、それは私はいわゆるお勤めの値打はないと思うです。はあ今日この事一つ分からせて頂いたと、初めの間はそらぞらしい御祈念であったけれども、ずーと、御祈念させて貰いよったら、祝詞を奏上させて貰いよりましたら心の中に何とはなしに神様が通うて来て下さる様なものを感じる。
そういう時に新しい水を取り替えられた様なものです、ね。
初めからもう喜び一杯でここへ足を向けておる。喜び一杯で初めから御祈念、いわゆるお勤めをしておるというものもないのでございます。けれども、それを行の様に勤行なんです。行の上に続けて行くところにです、それから何とはなしに新しい湧き出る様なものを感じる。そこにお花の水が今の様に暑ければね。それこそ二回でも三回でも取り替える程長持ち致します。いわゆる長生き致します。「生きたくば信心をして長生きをせよ。」ね。「生きたくば信心をし長生きをせよ」おかげ頂たくば信心をしておかげを受けよと、健康のおかげを頂きたいなら信心してを健康のおかげを頂けよと云うことなんです。なら、信心とはどういうことかと云うと、丁度花の水を取り替え取り替えさせて頂く様なものであると云うことを分からせて頂いて、いよいよ日々ね、だからここの中村さんなんかは日に三回お参りになる。だから日に三回水を取り替えなさる様なものであると私は思うのですね。どうぞ一つそこから長生きのおかげが受けられることになってくると私はこう思うです。 どうぞ。